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訪日外国人インバウンドおすすめスポット速報アンテナ

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天神山城 [2/3] 自然石主体の太鼓丸城から人工的な要塞の天神山城へ。

天神山城 訪問記 其の二。

[前回までの訪問記 概要] 和気美しい森より登城開始。まずは室町期の前期天神山城へ、自然の巨石を巧みに利用した細尾根上に築かれた連郭式山城。一部は戦国期に砦として改修された跡も見られた。其の二では後期天神山城へ。

訪問時期:2015年5月
天神山城 訪問記 − 其の一、二、三。


<訪問記>

tenjin-yama-jo_36_5330下の石門を越えて先へ。

tenjin-yama-jo_37_5335細尾根を進む。両側が竪堀状になっている土橋っぽい場所。

tenjin-yama-jo_38_5445前期天神山城の最も西側にある「亀の甲」。斜面を上ってくる敵に石を落とすための場所だとか。

tenjin-yama-jo_39_5336亀の甲。旧天神山城防衛の為に敵が崖をよじ登ってきた時、石落とし用としての石積の小山。

tenjin-yama-jo_40_5337亀の甲。ここから先は急な下り坂になっている。

tenjin-yama-jo_41_5444前期天神山城と後期天神山城とを隔てる谷。

tenjin-yama-jo_42_5340かつての太鼓丸城の背後に、やや高度は低いが広大な天神山城を築いた。

tenjin-yama-jo_43_5442尾根道を分断するように築かれた巨大な堀切。堀底を通って回り道をさせられる構造。

tenjin-yama-jo_44_5343堀切を越えるといよいよ後期天神山城の曲輪内へ。南櫓。堀切を越えてきた敵兵を上から攻撃する場所。

tenjin-yama-jo_45_5345南の段。奥に大きな櫓台が見える。

tenjin-yama-jo_46_5346右上へ行くと南櫓台。かつては巨大な物見櫓が建っていたという。

tenjin-yama-jo_47_5441南櫓台を横から。

tenjin-yama-jo_48_5350お次は馬屋の段。まやのだん。尾根上に築かれた段々の曲輪群がずっと続く。当時は土塁や城壁、柵などが設けられ見通しが悪く、どこまで城が続くのか攻め手は分かりづらい構造だっただろう。

tenjin-yama-jo_49_5439馬屋の段の向かって右側奥には「竪堀↓」と書かれた看板が斜面上に建っている。この下に竪堀が施されているようだ。

tenjin-yama-jo_50_5440看板の指し示す方向を覗き込んでみたが、どれが竪堀でどれが自然地形なのかよく分からなかった。ある程度降りていけば明瞭な竪堀が見られたのかもしれないが、時間の都合もありここは降りずに次へ。

tenjin-yama-jo_51_5354削平度合いが徐々によくなってきた。城の中心部へ向かっていることがよく分かる。ここは飛騨の丸下。この上が飛騨の丸だ。

tenjin-yama-jo_52_5356飛騨の丸と丸下との間には石積による補強がなされていた。飛騨の丸はその名が示すとおり、城主 浦上宗景の重臣 明石飛騨守の居館があった場所。明石飛騨守の息子は、大坂夏の陣で五人衆として活躍した一人、明石全登

tenjin-yama-jo_53_5358飛騨の丸。奥の大土塁の向こう側は本丸となる。

tenjin-yama-jo_54_5361飛騨の丸から本丸へは、土塁の脇に作られた細い道から回り込むように向かう。この道は山腹にある侍屋敷へと通じているそうだ。この下に広大な侍屋敷、見事な石垣に囲まれた物資貯蔵曲輪がある、と案内板がある。

tenjin-yama-jo_55_5362侍屋敷まで1.3km。車を美しい森に置いてなければ、ここから侍屋敷経由で下山するのが良い。

tenjin-yama-jo_56_5363では土塁を回り込んで本丸へ向かおう。土塁の周囲はかつては石垣だったのだろうか、ところどころ石が顔を見せている。

tenjin-yama-jo_57_5364本丸へ。本丸の東側、先程の土塁の上は社になっている。

tenjin-yama-jo_58_5365天津社。天文二年 (1533)、本丸築城の際に山麓遷宮した、とある。前期天神山城(太鼓丸城)の時代はここ裏山が守護神 天津社だったのだろう。天石門別神社は城の西端にある登城路を降りた先に今もあるという。

tenjin-yama-jo_59_5437後期天神山城 本丸跡。かなり広い。石碑や説明板などが立ち並ぶ。

tenjin-yama-jo_60_5367天神山城鳥瞰図。天正初年とは1573年。天正3年あるいは5年(諸説あり)には家臣だった宇喜多直家の離反により領内各地で争いとなり、最終的に天神山城は落城、宗景は播磨へ逃走した。この復元図はほぼ最終型といっていい姿だろう。これだけの規模と設備を誇っていた堅固な天神山城だが、宇喜多直家との戦いの最終局面では天神山城籠城となり、そこで重臣 明石飛騨守らが宗景を見限り離反したことで内部崩壊、落城したという。

tenjin-yama-jo_61_5368立派な城址碑。浦上遠江守宗景之城址 碑。

tenjin-yama-jo_62_5371本丸から更に奥へ向かう。

tenjin-yama-jo_63_5372本丸と二ノ丸の間には大きな箱堀(凹型)が施されている。

tenjin-yama-jo_64_5373箱堀の中から本丸側を見ると石積の跡らしきものがある。かつてこの堀の外周も石垣で固められていたのだろう。

tenjin-yama-jo_65_5375s二ノ丸へ。本丸の西側を守る最後の生命線。

其の三では城の西側に残る大手門跡や石垣跡などを見て回ります。

>> 天神山城 [3/3] へ続く。<<

訪問時期:2015年5月
撮影機器:FUJIFILM X-M1 + XF14mm
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Source: 城めぐりチャンネル速報



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